【ADHD・発達障害】
15歳から鳶職、型枠大工、自動車部品工場などさまざまな仕事をして自信をなくしていた僕が、
最後にようやく辿り着いた楽しいと思えたITエンジニアの仕事が結局ガチで一番イージーだった。
たまたまエンジニアの仕事を選び、気づいたら起業するほど楽しいと思える仕事だった。
試行錯誤の末にたどり着いた最強の能力発揮策は、楽しいと思えることです。
私のプロフィールはこちらです。書いてないだけでもっといろいろな仕事をしたことがあります。
あなたも苦労している、したかもしれません。悔しい思いも仕方もしれません。
それなら、一つお願いがあります。
これだけで良いので次の行のことだけ、覚えていてください!!
得意なこと!苦手なこと!、できること!できないこと!をできるだけ正確に把握する
得意なことは、そのまま伸ばす、苦手なことは仕組みでカバーする。
- 得意なら誰よりも伸ばす(好きなら勝手に伸びます、好きなことを作る、知る ※知るが重要)
- 仕事でなくてもよい、好きなこと好きなもの何でも良いです。それをきっかけに参考にして得意を知ることが大切です。時間がかかっても良い、何度失敗しても良いので把握してください。
- 苦手なら、策を打つ(できないのは、向いてないので頑張っても無理です)
- 無理だけど、大人になったら無理だけで終わらせないフェーズに入りましょう
- 自分でやらない仕組みを作ります(自動なのか、アラームなのか、他人にやってもらうなど)
- ここも試行錯誤を楽しむことにします!(ちなみに私は、よく忘れるので覚えることをやめました。完全に忘れても再開できるよう覚えなくて良い状況を作ります)
毎日夢中で無意識で生きてたためなのか
高校生くらいからしか、あんまり記憶にない。その前は、良く覚えていません。
なので、
今めちゃくちゃ悩んでしまうと思いますが
あんまり気にしない方がこの先の時間を有効に使えるかもしれない
この記事を最後まで読んで明日から、ほどほどに無理せずたまに頑張りましょう!
これは、私が伝えたい言葉です。
皆誰しもが過去を考えると後悔が浮かぶ、未来を考えると不安が浮かぶ、考えるほどに
でも、過去をぼんやりとだけ思い浮かべ、未来をぼんやりと見据えて、ただひたむきに目の前のことを一生懸命試行錯誤して過ごした時、そこに後悔も不安も浮かびません。一生懸命頑張った結果だけが残ります。
変えられない過去に時間を使っても、まだ見ぬ不確定要素の多い未来を考えてもなにも生まれません。
自分の力で変えられるのは、今だけなのです。
今しか自分の力で変えることができません。
それなら、今この時を自分の力で変えることに集中し時間を使った方が良いとは思いませんか?
今すぐ大きなことをするという意味では、決してありません。
今できること、今手の届くちょっと先に手を伸ばしストレッチする。これが一番良い結果を生む
私は、ようやく、そのような考えにたどり着きました。
続けられなくても良い、続けることになんの意味も見いだせなかっただけでしょう。できなくたっていい、その時は、足りなかっただけでまたやればよい。少しづつ今を一生懸命に、でも頑張れとは言いません。頑張らなくてよいのです。ただ一生懸命に真剣になるということなのです。
ろくな大人にならないと言われた小学低学年
最初は、小3の頃、とにかく厳しい先生で毎日毎日怒られ、全ての可能性を失った時期だった。
宿題をやってこない。勉強ができない。忘れ物が多い。主にこれらのことを怒られましたね。
怒られることで萎縮して、小学生ながら可能性を全く感じることができませんでした。
価値観を押し付けられると、これからの可能性を潰すかも知れないので
「ろくな大人にならないと」は言ってはいけない
できなかったこと
忘れているだけで、もっとあったと思う
基本的にできないことは、おそらくそこまで興味がないか、他に気を取られていたのだろう
大人の常識
普通は〇〇・当たり前
「普通ってなに?(思春期:普通って何だよ)誰が決めたの?」といつも心のどこかで思っていた
変わっているね
「何言っているの?これが普通だよ」と思っていた
(家で)宿題やりなさい
「なんで?残って学校でやれば済むじゃん」と思っていた(その方が集中でき早く終わっていた)
命令・背景を知らない腑に落ちないルール
一応やるけど、「なんでそうしないと行けないの?」といつも心のどこかで思っていた
※これらは、大人になるにつれた気にならなくなるものも多い(柔軟なうちに常識の叩き込みは大切)
朝の登校
朝ほんとに起きれなかった
行こうという気持ちはあったが、ほんとに起き上がることができず、遅刻をする
登校班は、最初の一年しか使ったことがなかった
宿題
家で最後にやったのは、見ててくれて褒められていた小2くらいだったと思う。
不思議なことにどんなに学校で怒られても、家帰ると怒られたことすら完全に忘れてしまう
勉強
基本的に楽しい先生の授業とか知識など、楽しいと思えた時が一番できた
それ以外は、苦手だった
机の中
とりあえず、奥に詰めておく。全て押し込む。その結果プリントが貯まる。
退屈だったので、机に穴を開けたり、鉛筆や消しゴム、お道具箱とかをちぎってよく遊んでいた。
忘れ物
リコーダー、縄跳び、体育着、割烹着、三角巾、雑巾、教科書等は、何かしら忘れていた
忘れ物は、現在も続く
- 外出直後に忘れ物に気づき、何度も家に戻る(忘れているかもの違和感はだいたい当たる)
- スーパーの買い物で関係ないものをたくさん買い、必要なものを買い忘れて、また買いに行く
メモしても、メモに書き漏れる。またはメモを忘れます。 - きれいに見えないところに収納すると存在を忘れる。
結果同じものを買ってしまう
(きれい且つ見える収納が良さそう) - 別のことに注意が向くと何をしていたのか、何を考えていたのか忘れる
- 例)麦茶を作るためコンロを使っていると、忘れてお湯がなくなるまで火をつけていた
長年忘れていると忘れるようなことは、大した事ないことと割り切るようになる
楽しいことや楽しい約束等は、絶対忘れない!
カギの締め忘れ、紛失、そもそも持っていくのを忘れるので、策としてカギ自体を持たないことにしました。色々調べてどれが良いか悩んだので、よかったら、使ってください。(普通の人はきっと、堕落している、怠けているとか言うだろう。便利ならいいんです。自分に取ってカギ自体が不要なのです。不要だから忘れる。)
嫌いな言葉
上から嫌いな順
- 頑張ろう、頑張る
- 意味は好きだが、ワードがなんか嫌い
- 男だから(らしく)、女だから(らしく)
- これはね、、ほんとに嫌いだった。勝手に決めるなと思った
- 常識、普通
- 鉄板ワード
これらの感覚が現在の「常識外の新しいものを作りたい」や「普通とは違うちょっと思考を凝らしたサービスを作りたい」それで大成したいと思う気持ちの原点なのかも知れない。
好きだったこと
楽しかったので、こっちは割と覚えている(かもしれない)
褒められると基本的に楽しいこと判定される→ 結果(飽きるまでは)好きになる
実験
ワクワクするので、とても好きだった
アルコールランプ、顕微鏡とかを使うときは本当に好きだった
図工・美術
創造するのがとても好きだった。
時間があっという間に過ぎていった記憶がある
技術
ハンダゴテをうまくきれいにできた時は、とても好きだった
調理実習
食べるのも作るのも好きだったので、ずっと好きだった
ただし、きゅうりの早切りからの漬物を作る回は本気でやだった
うまくできないし、「作るのきゅうりかよ!」と思ってしまった
歴史の暗記
10点も取れなかったが、中2の時にめちゃくちゃ褒められて、75点まで伸びた!
その後褒められなくなって、興味がなくなった。
基本的に「良いこと」、「悪いこと」、「優しさ」、「悲しさ」の理解は非常に持ち合わせている
ただし「明確な理由」や「腑に落ちる」や「目で見る」のいずれかが大切である
小学校の苦悩
普段の生活
- 朝起きれず、7割遅刻する
- 忘れ物が多く、よく吊るし上げられていた
宿題をやってこなく給食の時間(5分)と昼休みと放課後の大半を失った
その他は、夢中でバスケをしており、あまり記憶に残っていない。
だが、どんなに好きでもバスケ等の運動は、人並み以上には上達しなかった。
そもそも運動が得意ではなかったので、たくさん練習して少しできる程度だった。
今思えば、無我夢中でバスケをしていた。しかし頭で考えることを全くしていなかった。
ITとバスケの取り組み姿勢は、どちらも楽しいと思っていたので違いは無いが、
自分なりに考え、いくつもの仮説を立ててチャレンジ、試行錯誤という面では、かなりの差が開く
きっと、頭で考える試行錯誤という工程を入れていたら、かなり上達していたのだろう。
そのくらいの時間を費やしている。
中学校での苦悩
普段の生活
- 朝起きれなくて6割遅刻か、1割遊びに行っていかない
- 一人が好きだった、自称一匹狼(廊下でフラフラしている)
だが、校風なのか同じような子が10%以上ちゃんといたので、なぜか生きやすかった
卒業時期
下記のように思っていた
- 「義務教育が終わるのになんで就職と進学の選択肢から選べないの?」
- 「そもそもなんで退屈な学校なんて行かないと行けないの?」
- 「仕事ってやったことないし、お金もらえるし楽しそうじゃん?」
職業診断の結果の意味が全くわからなかった
これは、大人になっても続いたことだが、
初めて受けた職業診断は、14〜15歳ごろである。自分の進路の参考になるようにとアンケートに答えて自分の適正にあった職業を知ろうなどという授業があった。
結果としては、毎度お馴染みで、大学教授、大学研究員、研究者、図書館の職員、プログラマー、デザイナーなどという職業が並んだ。
周りには、工場勤務やサラリーマン、建設業などの大人しかおらず、就職の方法もわからない。
ましてや高学歴が予想される勉強ができる人しかなれないと思っていた職業を提示してくるため、
実現性を考えず、都会の人向けの回答でも返しているのだろう、田舎の私には無縁の職業だなと感じていた。
正直、毎度人をバカにした回答を提示してくるのは、やめてくれと思っていた。
(この回答は、最後にハローワークに行く大人になるまで続いた。)
今なら分かる、この時に既にADHDの特徴が適正職業としてはっきりと示されていたのである。
当時このことに気づいた大人がいたのかは、今でもわからない。少なくとも私は気づかなかった。
そもそも自分でもなれる職種というものが、こんなにもあることを知らなかった。
頭のいい人以外は、みんな工場勤務やサラリーマン、建設業のどれかになると思っていた。
もっと職種を知りたかった。
高校での苦悩
入学
- みんなに促されて一応入学
- この頃から他の人との違いを自分も周りも意識し、理解しすることで
生きづらいという感覚を覚える - 目立つことが求められる自分と目立ちたくない自分の間に乖離が生まれる
(特別扱いされずに普通でいたいと思っていた) - 朝起きれないので、最初の一ヶ月しかうまく通えなかった
- 自分でお弁当を作ってみたり、楽しみを増やしてみたものの
遠いし、朝早いし、つまんないし、暑いし、何もないし、でやめる
就職
10代
総括するとこのような感じです。
とにかく働くことが新鮮で、最初は楽しかった
しかし、同じことを繰り返すという感覚になると急にやる気が無くなってしまっていた
どこかで「本当はなんか違うな」という思いがあり、「みんなができるのに自分ができない」、「みんなが持っているのに自分は持っていない」という意識で、人より劣っているという劣等感が芽生えた
みんなが進学や就職する中、学校もでてないし、車もない、人生詰んだと本気で思っていた
何かしないと、変わらないとという思いだけが先行し、現実との違い普通との違いに絶望していた
(一番悩んでいた時期かもしれない)
ご飯を買うお金もなく、自転車で通える範囲でやっと見つけた仕事も、一度の遅刻をきっかけにいかなくなり、
始めては辞めを繰り返す内に自分は何もできないと思うようになりモチベーションが下がった。
「3日以上連続で働くのは絶対無理だ!」と思ってしまっていた。
鳶職・大工
一番初めに働いたのが鳶職です。ちなみに日給は、5000円スタートで最後6500円でした。
鳶職は、正確にはいろいろな職種に細分化されます。私が働いていたのは、住宅用の足場を設営する仕事です。良く足場屋と言われてたりしますね。
最初の頃は、楽しかったです。ですが、次第に仕事の進歩が遅いことで先輩方から、「お前はとても頭が悪い。」「日本語の勉強からやり直せ」などと言われたことを覚えています。よく遅刻も多かったので、罰金とか言われお金を取られたりもしたことを記憶しています。(7時前集合は早いよ)
この頃は、他で働く以外の選択肢が無かったのでそれでも頑張って働いていたのを記憶しています。休みも月に2〜3日とかでした。
幸いなことに、嫌な事柄や内容については、すぐ忘れて性格なのであまり記憶には残っていませんが、当時はとても悔しい思いや泣きそうになる日々を送っていた気持ちだけは覚えています。
この頃に一番学んだことは、大人は信用してはいけない。自分の身の回りのことを聞かれても言っていいことと良くないことがある。仲間は大切にしつつ切るときは切れ、先輩に奢られた分は、後輩に飯を奢れ、人を守れるように身体的に強くなれ。くらいですね。
今役に立っていることは、信用して良い人、信用していけない人の判断と後輩には飯を奢れの部分くらいですね。
特に身体的に強くなることは求められていないのと、もう正直言うと強いやつが正義みたいな世界は嫌ですね。いざ身の危険を感じた時に戦う気持ちが出てしまいそうになるので、そこはやめたいです。
大工は、正確には、型枠大工といって良くイメージする木材でお家を建てる大工ではありません。
マンションやビルを建てる際にコンクリートを流すための枠を作る大工さんです。
この仕事も足場屋の時の親方が移動した時に同じように移動したため、上司は代わりません。
日給1万円やるからこいと言われ、実際に支払われたのは、日給7000円でした。
こちらでは、おじいちゃんばかりの職場だったため、朝が早い(5時半くらい)以外は特段嫌な思いをした記憶はありません。みんな優しく強く、そしてギャンブル好きのおじいちゃんばかりでした。
居心地は良かったですが、ちょうどリーマン・ショックの煽りを受けて仕事がなくなり、呼ばれなくなった結果、退職する流れとなりました。
ちなみに入社の手続きは基本的に無かったので、仕事は前日に呼ばれる呼ばれないの世界線で働いておりました。
この頃の私に言いたいこととしては、当時の彼女のために良く頑張りました。パワーで働くことを経験できたのはとても良い経験です。この職業の人の気持ちになって物事を考えられる人は少ないので貴重な経験だと思います。
自動車部品工場
色々なアルバイトを経て派遣社員として転職
この頃は、仕事が無かったですね。
多くの大人が仕事を探していました。集団面接で落ちた人が次の週にコンビニの店員さんをしてたことを記憶しています。派遣で仕事を探す日々もあったりしました。
ちなみに時給は1050円で働いていた頃ですね。1000円に消費税分なのかと思う金額でしたが、この頃の仕事は、探してもこのくらいだったと記憶しています。
正社員と派遣社員の待遇特に支払われるお給料の差がとても激しかったことが記憶になります。
夜勤をすると、時給が25%アップするのですが、正社員は、25%アップに深夜手当が3000円支給されていました。派遣社員は、ボーナスもないので、その面でも違っていました。
また、有給が10日付与されますが、長く働いても10日以上はもらえません。休もうとしても詳しく理由を聞かれたりもしますね。
深夜手当が3000円支給のことを派遣会社の営業に伝えると、「25%は良いと思いますよ。他では出なかったりするので決して悪い待遇ではないと思いますよ。」なんて言っていました。
あとで理解しましたが、この営業は愚痴言われるのに慣れていて、ただ宥められていただけであった。
この大人もまた、信用しては行けない類の大人と思いました。
ちなみに退職の時は、残っていた有給が使えませんでした。
良かった面としては、初めて社会保険というものに入り、青色の手帳をもらいました。なんだか大人になった気分を感じたのを覚えています。
当時一番嬉しかったのは、毎日残業3時間、土曜日は休日出勤をして働き、初めて手取り20万円になったのが、嬉しかったのも印象的な記憶の一つです。
いつもは、手取り19万円台でしたのでおおおーってなりました。
今考えたら、仕事が無かったとはいえ、探し方の知識があったら少し変わったのかなと考えましたが、当時の能力と当時の仕事の募集を見ていたら、結果は変わらなそうと感じました。
20代・30代・40代の人たちが同じお給料で同じことをしているのを見ていたり、子どもの話をしていたり、子どものために残業頑張るぞと話していたり、お給料低いから残業するしか無いなと言っていたりするのをよく聞いていたのですが、この頃私は、未来の自分を見ているようで将来を絶望していました。
どんなに働こうが、正社員に慣れなかったら、この生活が続くのか、ずっと正社員と比較して生きていくのか、地面に座っておにぎりを食べ談笑して休憩を過ごし、仕事中も昨日のバラエティ番組と最新のパチンコ台の話で盛り上がり、特段技術の身につかない作業をし続ける。この生活に違和感と未来の絶望を感じたのを今でも覚えている。
確かに今思っても長時間労働と低賃金ながら、とてもとても幸せな普通の生活は、送れていました。
でもどこかで、変える力も無いし仕事も他にないが、好きな仕事ではないと感じました。
これがもし私の持つ個性ではなかったら、安心と安定と幸せの日々に満足して頑張り続けていたかもしれない。私は、そう思います。
結局、リーマン・ショックと計画停電が落ち着くまでの2年ちょっとは働いたと思います。
20代前半
自動車塗装工場
自動車部品工場の後、基本給20万円に惹かれ、別の工場に転職するも労働環境を比較してしまい3ヶ月で退職
労働環境は、2交代の12時間労働、ご飯は、地面に座り塗装の粉が舞った部屋でコンビニ弁当、残業時間の計算をしても意味はなく、なんだかいつも同じ金額が残業深夜手当として付与されている、いくらお給料が上がっても耐えられずで退職。
ここで嬉しかったことは、手取り30万円を一度だけ味わえたことです。
記念にABCマートに行きレッド・ウィングのブーツを買いました。
12年立つ今もそのブーツはあり、たまにアブラを塗ったりして手入れをしていますが、合計15回も履けていません。とても大切にしています。
給付金をもらいにハローワークへ
この頃、すぐやめてしまった後悔と自分の不甲斐なさで働く気をなくしていました。
そして、給付金を貰えることを初めて知り、ハローワークに行きました。
手続きを経て暇だったのでフロアをウロウロ、ちょうどフリーペーパーみたいに置かれていたパンフレットの棚を見つけ、興味の湧く仕事が無いか眺めていたところ、
その時に「組み込みプログラミング」というパンフレットを発見
(この時初めて職業訓練というものを知りました。)
見つけた瞬間を今でも鮮明に覚えています。
その時こう思った「ブラッティーマンデー」かっこよかったなー、プログラミングやってみたいなー
でも、パソコンなんて触ったことないし、ブラインドタッチもできないし、無理だろうな〜
それにお金もないし、もし入所抽選に外れたら金銭的に確実に生きてけないどうしようかと思った
だが、興味が勝った
一瞬の迷いがあったものの、すぐにそのパンフレットを手にし職員に説明を聞きに行った。
すぐに申し込みをして、面接の日にちを待った。
面接は全く手応えが無く、落ちた後に生活費が尽きることが頭によぎった。
そして後日結果の封筒が届き、行けることになった時全ての受験の中で一番喜びと安堵したことは今でも忘れない。
今思えば、年齢や就職の可能性を考えたら受かって当然であることは言うまでもないが、嬉しかった。
職業訓練を受けた後の就職率を計測しており、それが一つの指標になっているのでより就職の可能性が高い人順に選ばれる仕組みになっている。
就職訓練では、給付金をより長い期間受け取ることができるのも魅力の一つである。
なんだか、通ってみると懐かしい学校の雰囲気を感じ少しおもしろかった。
そして、肝心のプログラミングに出会い、
第一感想は、「全然意味分かんないけど、なんかめっちゃ楽しい!勉強楽しいじゃん!」となった。
その後もif分やその他色々回路のことも勉強し、毎日楽しい生活を送っていた。楽しい勉強は初めてだったので、前のめりで勉強に励んだ。その頃にできた友達がいて、午後はつまらない授業だから遊びに行こうと言って、バーベキューをしたこともある、定期的に飲み会を企画し、なんだか学生のような気持ちになった。(当時21〜22歳ごろ)その頃の友達とは今でも仲が良くたまに飲みに言ったり、仕事のことを話したりする。
しかし、ここでも問題が発生する。
楽しいのに、どうしても朝起きれない!!
あと、集団の中で生きることが苦手なことを思い出し、急に人見知りを発揮する。
昔から最初の3ヶ月は、全然溶け込めるのだが、4ヶ月目位から人見知りのように周りからの目線が気になったりします。なぜだろうか、今でもわかりませんが、全く別人のようによそよそしくなるので、周りの人は困惑します。高校もそれが原因で通えなくなり辞めています。私の中ではこのように呼んでいます。周りが期待する自分を続けるのに疲れたと4ヶ月目からが本当の私である。
ただ、そこはみんな大人しいものやわらかな大人の人だったのでいじめ等は発生せず、クリアできました。今思うとそのような方々との交流の方が非常に合っていたのかもしれない。
朝が起きれない点に置いては、少し遠いので朝が早かったのである。あと電車とバスを乗り継ぐ必要があり、大変でした。
退所寸前で「あなたは、後1時間来なかったら退所です」と宣告される。
追い詰められてから、能力を発揮するタイプなので、それから無遅刻・無欠席で1ヶ月終える
「やればできる」と自信になった。
6ヶ月中最後の月は、ほとんど就職活動に当てられる。
授業後にハローワークに行き、興味本位で職業適性テストを受けるが、ここでも前述のように同じ結果がでる。
「大学教授、大学研究員、研究者、図書館の職員、プログラマー、デザイナー」などここでもADHDには気付かない。
その後いくつかの会社に応募するも見事落選、東京行くか!と思い、東京の会社に応募する。
決めては、忘れてしまったが、おそらく学歴不問だったと思う。
この頃は、まだ中卒(高校の通信制6年目)でした。
突然知らない携帯番号から着信、出てみると東京のIT会社からだった。
その場で面接の設定をし、後日東京に行き面接を受ける。
ちょうどその日は、お盆休みだったのでブラック企業だったらどうしようかと思ったのを覚えている。(IT=ブラック企業のイメージだった)
あとで知ったが東京のIT系の会社では、お盆休みと言う概念は使わず、夏休みを3日とか4日とか取るスタイルのため、お盆休みも普通に仕事のケースがあっただけであった。
後日採用の連絡を受け取った。この時は嬉しいというよりも不安の方が8割を占めていた。
採用となってからは、通信の学校もより頑張るようになり、確実に卒業しようと目標になったのはとても良かった。
東京で就職 エンジニアの第一歩
10月から働くとこになった。今でもあの不安で仕方なかった第一歩は、覚えている。
今同じことができるかと言われたら、おそらくできないだろう。
お金もなく、知らない土地で、超節約しながら、仕事をする。とてもストレス。
初日、雑居ビルの小さい会社に不安を抱えながら慣れないスーツで出勤
(まだブラック企業を疑っている)
メールの設定等を行う。もちろん初めてなので、書いてある意味が全くわからない。
ここから3ヶ月研修をさせてもらえた(今思えばいい会社だったと思う)
この時に衝撃だったことは、
土日休みに加えて、祝日も休みであることに驚いた。しかもお給料は変わらない。
こんなことがあるのか驚いたが、そっちが普通であると今は感じる。
研修の内容は、簡単なプログラミングの練習だった。これもまた超絶楽しかった。
一ヶ月遅れで、5歳年上の同期が入社した。
変わった人だったし、一生懸命な人だったが、一緒に勉強できてとてもありがたかった。
月に1回くらいしか行けなかったが、仕事帰りに飲みに行くのも良い経験になった。
その他にも、帰社日にみんなでご飯を食べに行くのだが、
みんな優しく誰一人怒らない楽しい時間だった。お給料は、とても安かったが平和な会社だった。
職歴は長いが、社会人としての振る舞いは、まるで素人で大人子どもとして成長したので、
ここから社会人ぽい振る舞いの習得も始まる
「タバコは道路で捨てない」「道の真ん中を歩かない」「メールの送り方」「上司に休みの日に気軽に電話しないんだよ」など同期にも良く注意されたことは印象的だった。
今は、結婚して地元に帰っているらしい。
この頃近くにあった、100円ローソンでポークビッツを買って3回に分けてお弁当に詰めて出社、夜は自炊して、安いウイスキーを水で薄めて飲んでいたりしていたことが懐かしいです。そのくらいお金が無くても、なぜか悲観せずにいられました。
それは、支えてくれた方々のおかげとプログラミングの楽しさのおかげだと思います。
(支えてくれたとはそこにいてくれるだけも含みます。)
一点の曇もなく未来に歩みを進めていました。
成長を実感できることの楽しさ、充実感を味わい知れたことは、私にとってかけがえのない財産です。
それは、一人では成し得なかった、得られなかったことです。
この素晴らしい衝動を多動を与えてくれるADHDの能力は、私のものであり
時に勝手に孤独を感じることが往々にしてありますが、私を支えてくれた方々や影響を与えてくれた方々がいなかったらこの個性も空回りとなってしまったでしょう。この場を借りて感謝を申し上げます。
エンジニアになった後1〜3年
パソコンが使いこなせない劣等感がある中、
毎日嫌いだった勉強と社会人としての普通に合わせる日々
普通はとか言われたが「はいはい、疑問に思っている暇も余裕もないので合わせます」とめちゃくちゃ素直だった。
でも、めちゃくちゃ楽しかった!
毎日新しい閃きがあり、新しいことがあり、めちゃくちゃ楽しいと初めて思った
それでも、まともに本は読んだことないので(今でも)
座学は、苦手・つまらない (→ つまらないと嫌いになってしまう)
そのため、図・絵の多い本や、WEB検索をしながら、実践(トライ&エラー)で覚えることにしたところ
常に楽しい仕事にできたことで、とてつもないコミット力を発揮
エンジニアになった後1〜3年での苦悩
このあたりの話もまた時間がある時に詳しくUpdate予定
エンジニアになった後初めての転職で知ったこと
このあたりの話もまた時間がある時に詳しくUpdate予定
エンジニアになった後フリーランスへの挑戦場
このあたりの話もまた時間がある時に詳しくUpdate予定
エンジニアになった現在
10年以上も続けることができ、今でも楽しいと感じることができている。
できないことも苦手なことも多くあるのだけれども、会社員ではないからこそ、自分で選択できることが多くあり、苦手な部分の登場機会を減らすことができている。(特に飲み会の幹事とかは大嫌い)
今も当時の気持ちのまま成長したいという意欲を持ち続けている
ADHDと知ったのは、ちょうど1年前くらいである。それでこれまでの全ての辻褄があい、腑に落ち納得できた。
早めに気づくと対策ができるので、あれ?と思った受診または、コメントやお問い合わせください
今からITエンジニアを始めたい人はこのあたりの本がおすすめです。
IT就職時に特に気をつけたい部分はこちらにまとめています。
下記に「転職のノウハウと経験」を書きましたので、よかったらご覧ください
ADHDは、条件把握が大切とわかった
この特徴をうまくコントロールするために、発動条件・克服条件の把握が大切である
- 長年続く朝起きれない
- 朝ごはんや特別な楽しみがあると起きれることを把握
- 勉強できない
- 楽しいと思える工夫や楽しいと思える環境を作る
- 過集中
- 夕方〜夜、問合せや質問等の雑念がない、音・日光等の外部からの刺激がない状態を作る
- 時間が守れない
- 諦め、重要度によってアラームを2〜5回くらい設定する
- 頭の整理
- 情報を複数溜め込むと混乱するので、書き残し全て忘れることにする
さいごに
特徴を有効に使えることができれば、強い差別化ポイントにでき、有効に使えないと人一倍できない人にもなるので、うまく理解し、コントロールして特徴を利用していく方がよいのかな?と思います。
最近では、発動条件に気がつき、過集中のコントロールが少しできるようになりました!
あと、無理して頑張らなく良いですよ。
ほんとに困ってたり行き詰まったら、空を見て目をつぶり少し休んだ後に
一人で考え込まずに誰か安心できる人と会話してください。
一人で考えても答えがない哲学のように永遠に考えることができます。それも才能ですが、困り事に対して答えが出ない悩み方をするのは、いささかおすすめしがたいです。
なので、安心できる人との雑談が一番です。
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